冬至
今年も無事に、冬至の儀式を執り行う事ができました。
太鼓を叩くのは、夏至と冬至がほとんどなのだが、例外的に叩く事もある。
今年の年明けがそうだった。
いつもならなんてことはない、ジャーニーの時間15分なのだが、その日はなぜか叩き始めから、右肩あたりから腕がすごくだるくて、15分がとても長く感じた。
その時は歳のせいかな、と思っていたのだが、実はその時に母が亡くなっていた事を後日知る事になった。
父が亡くなった時もそうだが、私は禅的森田療法を受けるために長期間入院している最中で、重たい花瓶の水を入れ替えていたら、急に右半身が痛くなり、花瓶を洗面所の廊下に落としてしまった。
幸い花瓶が割れる事はなかったが、いつもならあまりしないというか、ほとんどしないミスだったので、驚いた記憶がある。
たまたま外泊許可をもらい、帰宅した時に、留守番電話に連絡があり、父が亡くなった事を知った。
父の場合は正確な日時ではなかったかもしれないが、母はほぼ正確だった。
どちらも家族はいるのに、誰に看取られる事もなく、自宅にいながら一人で亡くなった。
母の場合は、延命治療や余命宣告も嫌がり、自宅で亡くなる事を強く望んでいたから、願いが叶った事になる。
私が身内が亡くなると何故身体に異変を感じるのかはわからないが、魂が肉体から抜けようとする時に、私に知らせがくるような気がしている。
また誰かが亡くなる前後は、電気製品などが相次いで故障する場合もある。
昨年はエアコン2台、照明器具、今年はトイレが故障し、買い替えた。
痛い出費だが、私は滅多に電気製品は壊れない。
壊れた時のために貯金はしていた。
エアコンは30年も使っていた。
買い替え時だったといえばそれまでだが、それから三カ月後には母が亡くなるとは思ってもいなかった。
なんなら、いつか私も介護を手伝わないといけない日がくるかもしれない、と、足の弱ってきた母に、珍しく親孝行をしはじめた頃だった。
それら、一連の出来事は、たまたまかもしれないが、私が悔いを感じないですんだ、という意味では、いい亡くなり方だったように思う。
怪我
足を怪我してしばらく動けそうにない。
この際だ、過去にあった事を色々書いてみよう。
私は20代の頃、問題ある家庭に育った影響もあり、外に出られなくなってしまった事があった。
それをなんとかしたくて精神科に行った。
通院する事で、外に出る機会を作ったわけだ。
しかし、薬の服用だけでどうにかなる問題ではなかったので、ある方(女性)の講演会に行き、その方の言われる内容に感銘を受けた私は、その方がされているワークショップに行くようになった。
参加者がそれぞれ抱えている問題などを話し、次はグループに分かれてワークをする。
ある人は怒りを吐き出したり、ある方は問題となった場面を参加者に演じてもらい、自分になったり他人になったり、それを見たりする。
再現ドラマとでもいうのだろうか。
そうする事で、問題を客観視するようになり、苦しみが軽くなったり、癒されたりする、というものだった。
私はトータルで、そこに4.5年は行っていただろうか。
ちょっとした舞台にも出させてもらうようにもなった。
もちろん自腹で参加費を払う。
私にしたら大金だったが、自分を「治した」かった。
ある日、舞台の稽古前に、そこの事務所で、事務仕事を頼まれて手伝っていた。
主宰者の人がある店で昼食をとるから、と、数人のメンバーも合流して食べる事になった。
対人恐怖で、人前でご飯を食べる事に極度に緊張する私は、主宰者が何かを行っても、はい、くらいしか言えなかった。
リーダーと呼ばれるような人の前でリラックスできないのはいまだに少しはある。
私の父は日曜日だけは家族で夕食をとる人だったが、酒飲みで、酒がまわると、感情などのコントロールができなくなり、家族に暴力を振るう人だった。
3歳くらいの時に、私が、いただきます、というのを忘れて食べ始めたら、父が激怒し、真っ赤な顔で怒鳴り始めた。
私は走って逃げたが、3歳であるから、すぐに捕まり、それから抱きかかえられながら、顔を叩かれ続けた。
泣きながら、寝るふりをした。
泣き寝入りとはこの事かな、苦笑。
それから記憶にない。
とりあえず父を怒らせたら恐ろしい事がおこる、誰も助けてはくれない、とわかったので、私は父の前では話さない子になった。
基本的にはい、か、いいえ、しか言わず、日曜日の夕食は、怒らないようにするために必死で耐えた。
それがエスカレートし、誰か知らない人が一人でもいると、全く言葉を発さない、場面緘黙になった。
親戚には、この子の声を聞いたことがない、とか、大人になり、家を出る時に親戚に挨拶したら、こんな子いたの?知らんかった、と言われた。
それくらい、私は自分の存在を消すのが得意だった。
物音をたてない、話さない、笑わない、幽霊のように生きた。
小学生になる頃には、兄からの暴力に悩まされるようになった。
もう削除したが、以前兄に叩かれて痛いから泣いたら母にうるさい、泣くな、と叩かれてから、泣かない子になった、と投稿した事があったが、成長とともに暴力もエスカレートし、私は兄と口を聞かないことで、自分の身を守るようになった。
誰も助けてくれないからだ。
ゆえに、私は家族と親しく話すという習慣のない人生をおくってきたから、他人と食事をしながら楽しく話す、などという事が、なかなかできにくい性格になってしまった。
特にそこのリーダーがいる時は。
話がそれたが、昼食後そのワークショップの主宰者Mから、事務所に電話があり、スタッフに
「Mさん(主宰者)が昼食を楽しくとりたいのに、あなたと○さんが暗かったから怒っている」と、言われた。
私はその後、夜からある稽古に行く時に、怒られたもう一人の○さんに、Mさんに謝りに行かない?と言ったら、○さんは、後でいい、と言ったから、Mさんが入ってきてもすぐに謝罪にいかなかった。
○さんに合わせた。
するとMさんは、座るなり、舞台に出るみんなの前で、私と○さんを怒り始めた。
「私は子供の頃から病弱で20歳までは生きられないと言われた。
だから、昼食のわずかな時間でも楽しみたいのに、あなたは暗すぎる。
質問した事にも受け答えがはっきりしないし、めざわりだ。
何より私が入ってきた時に、謝罪に来なかった。
それが一番おかしい。」
私は恐怖で凍りついてしまって、体が硬直し、何も言えなくなってしまった。
「あなたはね、下品よ。
舞台に出るのか出ないのか、はっきり答えなさい!」
と、怒鳴られた。
「やるのか、やらないのか、早く答えなさい!」
何回も言われたのに、もう辞める事は決めているのに、なかなかそれが言えなかった。
何故か、体がこわばって、言葉が出てこなかった。
もう一人の○さんは、「やります」と答えたが、私は
「やめます」
と、振り絞って言ってから、稽古が始まり、私は主宰者と助手をされていた方に、
「すみませんでした」
と、言いにいったが、嫌そうな顔をされただった。
私は走って駐車場に行き、急いで車を飛ばして、2時間ほどかけて家に帰った。
車中でずっと泣いていた。
もう二度と、あそこに行く事は無いんだな、というか、もう行きたくはない、悲しくてすぐに謝罪に行かなかった事を悔いもしたが、何より傷ついた。
癒しの作業が中途半端になり、残念ではあったが、あれだけ主宰者を怒らせたら立場はなかった。
みんなの白い目がよみがえって、悲しかった。
食事を楽しくしていない、という理由で、大勢の前で怒鳴られる事は、私の中では、死刑宣告を受けたようなショックな出来事で、しばらくトラウマになった。
ますます引きこもるようになり、再び精神科に行くようになった。
私はまだ今もその人の年齢にはなっていない事にも驚く。
それほど私は若い歳下だった。
その事は何年経っても忘れる事がない。
その女性主宰者は今もおそらく元気に怒鳴りながら、舞台や色々な事をされている。
相談事例
悩み相談 事例
例①
相談)生きるのが辛いんです。
回答)生きている限り、辛いのは当たり前。
悩みのない人間などいない。
苦しいのは自分だけと思わずに、誰かに聴いてもらうべし。
例②
相談)コロナになりました。
回答)寝ていれば治ります。
例③
相談)失恋しました。
回答)別の人を探しましょう。
例④
相談)離婚したいけど子供がいるからできない。
回答)経済的な事情からなら、今すぐ収入源を確保し、働けるようなら働いて貯金からはじめるべし。
子供は自立できるように愛情を持って育てれば、いつか巣立ちます。
また時間が解決するような悩みなら、感情で行動せずに、理性が戻るまで待つべし。
占いはあくまでもキッカケ、過程にすぎません。
決めるのはご自身です。
喪中
母が亡くなって、まだ一か月もたたないのだが、生前私はあまり会いに行かなかったからか、あまり実感がない。
最後に母に会ったのは、昨年の母の誕生日。
転倒して落ち込む母に、もうすぐ誕生日だから、何か食べに行こう、和食がいいよね、と、私にしては珍しく、食事に誘った。
私は飲むのメインになるし、女2人でコース料理にして残るのが嫌だったから、個室にはならなかったし、料理チョイスの居酒屋的な使い方になってしまったが。
年末にきょうだいが母を旅行に連れて行ってくれて、帰宅して、間がなかった。
年明けに姉は姪と母に会いに行っている。
私には年賀状も届いていたし、元気にしていると思っていたし、話に聞くと実際元気だった。
亡くなる直前まで、普通に買い物に行っている。
生前、母に会いに行った私にも
「私はどこにも行かない、ここで死ぬ」
と言い切っていた。
本当にその通りになった。
私はここ数年、急ピッチで自分のできる親孝行はしてきたつもりだが、それが母の死を早まらせたのだろうか?
いや、そうとも思わない。
ただ、母は、私と同じ末っ子だし、年下の身内までどんどん亡くなっていたから、どこか寂しそうで、会いに行くたびに、自分はもう身につけないから、と、アクセサリーを渡された。
母が亡くなって数日後の枕経の日、
母が寝ていた部屋の引き出しの一番下の一番上のわかりやすい場所に、私がまだ小学生の低学年で、字を覚えたての下手くそな字で書いた手紙があったのを見つけた。
お母さん、この手紙は死ぬまで大事にしておいてね、誰にも見せないで、
と、書いてあった。
母がその通りにした事が驚きだった。
私はそんな手紙を書いた事すら忘れていた。
母も私も不器用だけど、どこか似ている所があった。
占い的に言うと、干合の関係で、陽占では、同じ場所に同じ星が複数ある。
私から見ると、親はケチだが、母から見ると、仲間のような関係だろうか。
頑固で融通が効かないが、芯を貫き通す粘り強さはある。
母は、許せない、許さない、という気持ちをなかなか手放せなかった人だったが、晩年はそうでもなかった。
私は母のようになりたくはなかったから、許せない、許さない気持ちはあっても、自分の経験した事から、手放す事を選んだ。
私が身動きがとれず、一番苦しかった時、母は度々手紙やファックスを送ってきた。
読んだらすぐに棄てるように、と書いてあったので、母が誰にも言っていない事がわかるが、私は残しているものもある。
しかし、いつかは処分しないといけないなぁとは思っている。
母が、墓場までもって行ってくれた事には感謝している。
母が亡くなり、不思議なことが、時々あるのだが、それはまた後日。
2023
遅ればせながら、
あけましておめでとうございます。
私は初詣というか、御礼参りに行ってきました。
また自分の利き手の若干の障害に対してのお百度。(そこは数え年ですが)
あまり行かれないであろう、裏手にある弘法大師の時代の井戸もお参りしました。
急に雨が降ってきて、濡れてしまいましたが。
私は個人的に、人というのは、表面的に付き合っただけではわからない側面がたくさんあると思います。
長く深く付き合わないと人間などわかりようがない、というか、それでもわからない部分は出てくると思います。
だって自分以外は他人ですから。
相手の気持ちが知りたい場合、タロットも有効です。
ただし、私は対面重視なので、鑑定場所がない身では、なかなか機会がありません。
人脈作りが下手なもので。
色々店に行き、リサーチはしているのですが、店によっては嫌がられるケースもあり、なかなかここ!という場所がないです。
しばらくスキルマーケットで取り組んでみようかなぁとも考えています。
(追記 通話可能なので)
スキルマーケットでは、別名でしていますので、ご希望の方はホームページの問い合わせから、ご連絡下さい。
https://dream-catcher8.jimdofree.com/